Hotspur’s blog

移行テスト

【映画】出生主義と戦うヒーロー『エターナルズ』

 大昔から人類を守ってきたヒーローチーム・エターナルズが、天敵の再出現に立ち上がった結果、自分達に課せられた使命の真実を知っていく……という物語。

 

 かなり登場人物が多い映画なのだが、MCUでは初登場のキャラクターばかりなので、個性が丁寧に描かれていて、独立した作品として見ても分かりやすい。

 エターナルズは長命種であり、映画では「長命種あるある」なエピソードが沢山披露されている。長命種が長命種友達との関係を説明する時は「大学の友人」と言うのがスタンダードであるらしい。

 

 そんな長命種達の物語は、生命そのものの在り方の問題になっていく。この映画は、反出生主義を真っ当に取り上げている、きわめて珍しい映画だ。

 自分達を人類を守るヒーローだと思っていたエターナルズは、実は星を滅ぼして新しい生命を作るためのロボットで、人類を増やしていたのは、人類の幸福のためではなく、単なるエサ作りに過ぎなかったのである。

 この構図は、現実における国家が、出生を善行として肯定しているが、実際には国家を肥え太らせるための道具を増やしているだけであるという問題点と重なる。あと何故かトランスフォーマーともかなり似ている。

 

 映画では人類の愚行の象徴として、レコンキスタドールと原爆という2つのイベントが描かれている。それはいずれも国家の肥大化と関わりの深い出来事だ。

 特に日本人の立場からすると、アメリカ映画で原爆が明確に否定的に描かれているという部分はついつい褒めたくなるのだが、これには少し留意が必要だ。

 もう一つの愚行がレコンキスタドールである事からも分かるように、これは白人に自省を促すために選定された愚行であるので、日本人の立場でこれを肯定すると、どうしても他責的になってしまう。日本もまた帝国主義であった事を忘れてはならない。

 これは映画の立ち位置上仕方のない事で、アメリカ映画として非白人の愚行も対等に取り上げようとすると、どうしても進んだ白人が野蛮な周縁国家を批判するという、古典的な差別描写になってしまうので難しい。そういった背景を考慮した上で考えた方が良い描写である。

 キンゴの描写に関しても、同様の留意が必要だ。ボリウッドスターのキンゴが、代々俳優の家系(という事になっている同一人物)として生きてきたという事は、ギャグのように描かれているが、彼は家系スターとしてカースト制度の特権を享受してきた立場であるという事なので、あまり笑えない話だ。

 

 エターナルズの上司のセレスティアルズは、星を滅ぼさなければ新しい生命が生まれずに無になるという話をして、今在る命と産まれていない命を天秤にかけようとするが、これは典型的な出生主義者の詭弁である。無は善くもないが悪くもない。産まれていない命の価値を考慮するという事は、セックスをしない事や避妊を殺人とみなすという事で、これは到底道徳的には受け入れ難い価値観であるのに、出生主義者はその矛盾に気づいていない。

 だが、この映画ではセレスティアルズの詭弁への明確な反論は行われないまま進行する。流石にこのテーマを扱っておいて、これが詭弁であると知らないとは思えないので、ここには何となくクリティカルな議論を避けたがる、出生主義者への配慮の匂いがする。

 自分達の使命に対する各メンバーの向き合い方は、人間の属性で考えた時に出生主義についてこう感じてそうだな、というイメージ通りのスタンスになっている。女性陣は言わずもがな、ゲイのファストスは生産性が無いことは悪い事かという問題を考えざるを得ないだろうし、ドルイグはハグが苦手だという台詞から、アセクシャルの傾向があるように見える。

 ただ、ファストスが子供の居るゲイだと言うことは、同性愛者は少子化を促進して国を滅ぼすような存在ではないよという、マジョリティへのアピールのためにその属性を利用されているので、あまり好ましい表現とは言い難い。

 

 まだ影も形もない人類以降の新生命に対して、出生と引き換えに地球を破壊する、産まれかけのティアマットをどうするかという問題は、中絶を暗示している。中絶の是非は反出生主義とは少しズレるのだが、反中絶派の主流意見は、子供を産む事が善いことだと信じている出生主義者のものである。

 ティアマットも人類も守るという穏当な選択肢が失敗し、セルシがティアマットを殺す事を選んだというのは、かなり明確に中絶を肯定するメッセージを感じさせる、革新的な描写だ。

 ティアマット当人が産まれない事を望んだのは、芥川龍之介の『河童』で、河童の赤ちゃんは自分の意思で産まれるかどうかを決める事ができると描写されていた事を思い出した。『河童』が、架空のユートピアをと対比させる事で出生主義の是非を問うような文脈であるのに対して、『エターナルズ』は架空の解決方法をもって現実の問題を解決している。こういうやり方は、現実ではその問題に対して解決不能だという事を認めているようで、あまり好みではない。

 反中絶派のイカリスは、最終的には矛をおさめるのだが、イカリスは好きな人の中絶だから容認しただけで、根本的には反省していないと思う。いつイカリスがボコボコにされるかと期待していたら、エモい感じで勝手に死んでしまったのは、どうにも収まりが悪い。セルシには、キャプテンマーベルを見習って欲しい。

 

 主人公のセルシ周りの恋愛関係の拗れは、世界規模の問題と並走する個人規模のドラマとしても描かれているのだが、元カレのイカリスと共闘して絆を深めるというシーンが「おっ浮気か?」とでも言いたげな下品な視点で描かれていたのはかなり酷いと思う。モノガミーの押し付けだし、週刊誌のゴシップみたいで悪趣味だ。

 スプライトは作中ではイカリスが好きだったという理由で裏切りを説明されているが、恋愛ものの文脈的には、スプライトが好きなのは明らかにセルシである。セルシは学校の教師なので子供を恋愛対象とは見ていないだろう、という事が描かれているからだ。スプライトはセルシにとって、絶対に恋愛対象ではない恋愛相談役で、こうしたポジションに居るキャラクターは、実はその人に想いを寄せているものだからだ。スプライトのセルシへの感情は、嫉妬も含んだ「百合」的な奴であると思う。

 

 その他に気になった描写として、セナが精神的に不安定な女戦士である必要は無かったのではないかと思う。ギルガメッシュが主夫・ケアする男性として描かれていたおかげで多少はましになっては居るが、根本的にそのようなキャラ造形にはウンザリだし、やめた方がよい。

 

 この映画のメッセージは、マジョリティへの配慮を含んだかなり「穏当」なものになっている。中絶を禁止したり、人を国家繁栄の道具にするような形の人口増は良くなくて、ファストスの家族やエターナルズの連帯のような、新しい家族の形に変わっていく方が良いというものだ。

 仮にみんなが産まない自由を選択して、国家が滅びたとしても人権は絶対に守るべきだ……という毅然とした主張ではなく、新しい家族でも子供を産む人は居るのでまあ大丈夫っすよ、といったやんわりとした話が行われている。

 MCU映画といった世界規模の大衆向け映画で、反出生主義の話をやったり中絶を明確に肯定したりするのは、かなり革新的で攻めていると思うのだが、同時に大衆向け映画は、所詮このあたりまでしかできないのかといった限界も見えてくる映画だった。

【映画】ヒーローの意志を継ぐのは赤の他人『シン・仮面ライダー』

 バッタの改造人間にされた本郷猛が悪の組織ショッカーと戦う……という、あの有名な特撮作品・仮面ライダーのリブート映画。

 本作の特徴は、主人公の本郷が人を殺す事に心を痛めて、終止涙目になっているような、とにかくナイーブなヒーローであるという事だ。

 化け物になった自分を拒絶して変身を解除してしまったせいで、クモオーグの襲撃を防げないという描写は、いかにも嫌われがちな不戦主人公といった感じのムーブなのだが、このナイーブさは人間嫌いなオーグ達との対比にもなっているし、あまりにも徹底して気の毒そうなので、一つの魅力になっている。

 本郷のこの性格は、同じ庵野秀明作品であるエヴァのシンジの系譜を感じさせ、シンジの心の弱さが視聴者から欠点として嫌われていた事を思い出すと、本郷の性格が魅力としてファンから受け入れられている事には、感慨深いものがある。

 

 敵であるオーグ達は、悪の組織といってもかなり個人主義的で、それぞれが思い描く理想の世界を作ろうとしている。それぞれ異なった思想の敵を、次々と倒していくという物語は、散漫としてしまいそうに思うが、見てみると意外とまとまっていると感じた。

 オーグ達は皆、理想を信じているというより、人間への復讐を理想社会という大義で覆い隠しているのが明らかで、敵味方の思想面の対立に面白みがあるような作品ではない。世界征服というスケールとは裏腹に、全体的に内向的な雰囲気が漂う。

 

 映画では描かないけどショッカーの構成員同士に何か深い関係性がありそう、という仄めかしはどうにもわざとらしくて、いかにもオタク受けを狙っていそうなあざとさがあった。

 自然で良いと思ったのは、改造人間の化け物じみた自分の顔を、どういう風に扱うかというスタンスの違いの描写くらいだろうか。

 けれど、化け物顔の醜さがコウモリオーグ以外は控え目だったのが、意図的な個性の違いなのかヒーロー作品としての配慮なのかはよく分からないが、人外としての説得力に欠けると思った。

 本郷がバッタになった自分の腕を見て、恐る恐るマスクを脱いで顔を確認するシーンは、化け物になった人間の悲哀を表現する上で重要なシーンであるのに、はっきり言って腕の方が衝撃度が高かったので、表現として失敗している。本郷の反応だけを見せて、視聴者の想像に任せた方が良かったのでは。

 

 本作はアクション映画で、アクションシーンも重要な要素の筈なのだが、全体的に低予算を感じて苦しいものがある。あえて止め絵を使ってアニメ調なスピードの表現をしているという意図は分かるのだが、どうしても似たようなジャンルの映画と比べてしまうと、見劣りする。

 一番問題なのは、圧倒的な強キャラとして演出されていたチョウオーグが、主人公側が作戦を語った後にいきなり弱体化していく事で、ご都合主義を感じた。本当に人間同士のバトルシーンは下手くそで、見ていて辛かった。

 ただし、仮面ライダーの名に恥じず、乗り物のアクションはかなり良い。頻度が多いし、よく爆発もする。ペットみたいに付いてくるサイクロン号は可愛い。

 

 何かと評判の悪い、庵野の国家権力フェチは今回も炸裂していて、仮面ライダーはいつもの役人キャラと同盟関係を結んでしまう。

 これは国家権力万歳という描き方では決してないのだが、明らかにシステムと私情との間で板挟みになって困っている人間に興奮しているのは、むしろ国家権力万歳よりタチが悪くないだろうか。

 システムを変える事なんてできないんだという諦観が根本にあるのは古臭いし、ヒーローものとしては、例え見え見えな欺瞞であっても、キャラを傷つける事を楽しんでいるわけじゃなく、世界を平和にする事が良いのだという態度を取るべきだ。

 

 ルー語を喋るキャラが出るとか、人間の体臭の話になるとか、それ以外にもいつもの庵野作品といった要素が沢山出てくるのだが、過去作と比べて進歩しているとか、もっと深く掘り下げているという事は全然なく、手癖で同じ事を繰り返しているという印象を受けた。

 ただ、恋愛関係でない男女の関係という要素に関しては、新しい作品ほどそれが露骨に表現されるようになってきている。そんなにわざとらしく明言しなくてもちゃんと理解できるので、もっと視聴者を信頼して欲しいものだ。よっぽどキャラクターがカップリング消費されてしまう事に耐えかねているのだろうか。

 

 この映画の物語は、本郷の協力者のルリ子の家族関係の拗れによって動くという王道なものなのだが、そこに一文字という赤の他人が介入してくる部分に、本作特有の魅力がある。

 家族や友人を救えなかったルリ子が、全然知らない一文字の事は救えてしまう。本郷が親の死によってヒーローになった過去を持ち、ルリ子の家族問題に介入する理由づけがされているのに対して、一文字にはそういった背景はない。

 戦う理由のあるルリ子も本郷も死んでしまう中で、赤の他人である一文字だけが生き残って彼らの意思を継ぐという物語の結末からは、ヒーローは理由なく人助けをするものだし、ヒーローの意思は赤の他人にも受け継がれるものなのだという、主張を受け取る事ができる。

 全体的にやりたい事は分かるが、表現があまりにも下手くそすぎて、オタクのネタ帳を見せられているような映画ですらない何かなのだが、ナイーブすぎる主人公と、赤の他人が意思を継ぐヒーローという部分は本当に素晴らしい出来をしていて、評価に困る作品だった。

【書籍】性規範・性別違和の二元論が問題点『トランスジェンダー入門』

 ついに出たトランスジェンダーの入門書である。この本の重要な所は「丸ごと一冊、トランスジェンダーの説明がされている本である」「脱病理化された、現在のトランスジェンダーの認識で書かれている」「日本の文化や法律を前提にしている」という3点である。

 最近発売された『トランスジェンダー問題』はやや難しく、イギリスの本なので日本人が読んでもピンとこない部分も多かったので、このような入門書が出た事には、非常に意義があると思う。

 

 『トランスジェンダー問題』を普通に理解できてしまった自分にとっては、今更入門書はいらないのではないかと思いながら、半ばお布施として買ってみたのだが、法律に関する部分は意外と知らない事も多く、ためになる本だった。

 入門書であるとはいえ、トランスジェンダーの中の多様性や、複合差別・交差性の問題など、単純化すべきでないところはきちんと説明をしている所は誠実なのだが、一方で、説明がやや不十分であると感じる所もいくつかあった。

 

 まず、「ジェンダーアイデンティティ」「性同一性」「性自認」という言葉に関して、「意味の違いがあると主張する事は間違っている」という話なのだが、具体的にどのような相手を批判する文脈なのかが示されていないのは良くないと感じた。

 例えば、LGBT理解増進法における性自認の表記を巡る論争の場合、性自認という言葉を拒絶する側に差別を温存する意図があり、言葉の違いを単なる表記揺れとはみなさずに、意味の違いを指摘する側が差別に反対する姿勢を取っていた。著者的には前者を批判したい筈だが、後者を批判する内容であるとも取れてしまう。

 LGBT理解増進法はごく最近の話なので、本に反影できなかった事は仕方ないかもしれないが、ジェンダーに関する用語が海外から輸入された際に、表記揺れがそれぞれ異なるニュアンスを持ってしまうという前例は多いので、予見できない話ではないだろう。

 

 次に、刑務所やスポーツなどがトランスの侵入によって脅かされるかもしれないという懸念に対して、そういった可能性の低い事を考える必要はないというのは、詭弁である。可能性が低い事を心配しなくて良いのなら、世の中の大抵の犯罪の対策は、する必要が無くなってしまう。

 この問題に関しては、『トランスジェンダー問題』が男女二元論的なシステム自体に問題があり、根本的な改革が必要なのだと喝破したのに比べると、きわめて精彩を欠く回答である。

 

 この本の最大の問題点は「性規範への違和感」と「性別違和」を異なるものとして扱う二元論的思想が根幹にあるという部分だ。この本ではアンブレラタームとしてのトランスジェンダーにも寄り添う姿勢を見せているが、この二元論的思想は、ジェンダークィア傾向がある自分の感覚からすると、そんなに明確に分離できるものではない。

 自分の感情や認識がどのように発生しているのか、はっきりと理解できる人間は存在しないと思う。大切なのは理由ではなく、その人がどうしたいかという事と、他人の選択を尊重する事ではないのか。

 自分はアセクシャルとして、性的な欲求を持たない事が、良い相手に出会っていないせいだとか、性嫌悪が理由なのではないかとかいう可能性についてずっと考えさせられてきた。けれども、自分がアセクシャルだと思っているなら、今はそれでいいのだし、性嫌悪があったとしても、迷惑でも困ってもいないのなら、治す必要はないのだ。トランスジェンダーに関しても、アセクシャルの経験と同じ事が言えると思う。

 

 『#MeToo政治学』に収録されたルインの『ジェンダー概念とジェンダー暴力』では、トランスジェンダークィアの立場から、トランスと非トランスの受ける抑圧は異なるものではなく、連続体であるという考え方が提案されている。私はこの考え方の方が、二元論的な区分よりもしっくり来る。

 性規範への違和感と性別違和を別物ととらえる価値観の下では、自分の感情を整理できなかったり、感情の明確な理由など分からないのだという哲学観を持つ人間は、偽のトランスとして疎外される。

 この問題は、マジョリティへの配慮によって複雑さが切り捨てられているせいで起こっているわけではなさそうだ。単純に、性規範への違和感と性別違和は別物で、自分ははっきり後者であると考えているようなトランスの視点に偏って本が書かれたせいで起こった問題ではないかと思う。それだけではなく、ジェンダークィアやクエスチョニングなどの視点も取り入れて書かれるべきであった。

【ゲーム】言語解読とクィア性『7 Days to End with You』

 言葉の通じない謎の女性に保護された主人公が、未知の言語を解読しながら一週間の生活を送って行くゲーム。

 

 対訳も辞書もなく、本当に手探りで未知の言語を訳す必要があるのだが、言語解読の難易度は低めである。基本的に言葉がどのような場面で使われているのかを見て、当てはまる単語を選んでいくだけで物語を理解する事ができる。

 その代わり、架空言語を理解する事でその社会の価値観を理解していくような、言語学的な面白さはない。かばん語や語尾変化の概念も無いので、むしろ言語学に精通しているほど、文字の共通点に意味があるのではないかと深読みをして、解読に詰まってしまいそうだと感じた。

 短いゲームなので、登場する語彙もさほど多くはない。謎の女性は、言語の分からない主人公のために、語彙を絞って話しているのではないかと考えられる。だが、女性以外の登場人物の語彙も少ない事は、ゲームの都合を感じてしまった。現実でも語彙の少ない言語自体は存在するが、それらは単純な概念を組み合わせて複雑な概念を表現していたり、物の区別の仕方が独特だったりするものだが、このゲームの言語にそういったものは感じられなかったからだ。

 

 架空言語のリアリティを考える場合、その言語が書けるかどうかも重要な点だ。やたらと入り組んで装飾的だったりする創作言語は、日常的に使用されているとは思えないので、リアリティに欠ける。

 そういった視点で見た場合、このゲームの言語は全く書く事に適してはいないのだが、これは失語症視点の文字の見え方を表現しているのではないかと思ったので、さほど気にならなかった。文字をあえて読ませる気のない記号的に作る事で、それが象形文字である可能性を排除させたかったのだろう。

 

 ゲームの問題点なのだが、Switchで遊んでみて、全体的に操作にストレスを感じた。

 カーソルの感度が高すぎて、小物を調べるのが大変だった。キャンセルウインドウが出っ放しになって画面が見えなくなってしまったり、書類の拡大表示の際に、背景画面の小物の調査が出来てしまうなど、バグやそれに近い挙動があった。

 また、マルチエンディングで終盤にしか分岐がないのに関わらず、途中から始める機能がないので、EDを見るためだけに作業を繰り返す必要があるのも不便だと思った。

 

 一方、面白かった要素は、未知の言語の正解は誰にも分からないのだという事と、物語のクィア性が結びついているという点だ。

 女性は、戦争で死んだ恋人である主人公を蘇生させる実験を繰り返しているらしいのだが、写真で見られる主人公の見た目は、かなり女性的だ。

 けれども、本当に主人公は女性なのか、写真の人物と主人公は同一人物なのか、女性と主人公の関係性は恋愛関係なのか、正しい事は何一つ分からない。

 この事にはクィア・ベイティング的な嫌らしさを感じないでもないが、それよりも、関係性に名前をつけて、定義する事を拒絶するクィア性を感じた。なにせ、プレイヤーが最初に決めるのは、女性の事をどう呼ぶかという事なのだから。関係性も、名前すらも自由に決めていいというゲームの在り方自体が、一元的な解釈で語られることへの抵抗になっているのだ。

【ゲーム】クトゥルフ釣りゲー『Dredge』

ゲーム画面


 不気味な港町で魚を釣りつつ謎を解明していくゲーム。

 普通の魚の他に、名状しがたい奇形の魚が釣れたり、夜の海に居ると正気度が下がって化け物に遭いやすくなるなど、クトゥルフっぽい世界観をしている。

 ゲーム面の特徴は、魚にはそれぞれ形状が設定されていて、限りある船のスペースに対してうまくパズルのように組み合わせて詰め込む必要がある事だ。時間経過による腐敗や、正気度低下によるペナルティなどもあるので、計画を立てて効率のよい釣りを目指す事がゲームのキモと言ってもいいだろう。

 

 釣りのシステムはタイミングよくボタンを押すありがちなものなのだが、ボタンを押さない事による失敗扱いはない(サルベージは別)し、設定で救済措置もあるので、タイミングゲーが苦手な人にも優しいゲーム設計がされている。

 本作の重要部分は釣り自体ではなく、釣果をどうやって持ち帰るかという部分にある。大きくて複雑な形をした魚は、扱いづらいが売値が高いので、それをメインに釣りつつ隙間に小さい魚を入れるなどといった計画を立てて釣りに行くのだが、道中でレアな魚を見つけて計画が狂ってしまうとか、鮮度を気にして危険な夜の航海を行ったりといった駆け引きのおかげで、何度も新鮮な航海を何度も楽しめるのである。

 サブクエストや収集要素も多く、新しい場所を航海する時には、探検もまた楽しみの一つだ。

 

 このゲームはクトゥルフっぽい世界観をしているが、クトゥルフ神話の怪物が出てくるようなものではない。ラブクラフトの小説を読んだ時に感じる、不気味な海洋生物への恐怖を体験する事ができるので、クトゥルフ神話ではないが、根本的な部分がクトゥルフっぽいという作品だ。

 ラブクラフトの小説の中でも、インスマスの話が直接のインスパイア元だと思われる。ところが、インスマス面をした魚人達が、特にラブクラフトの人種差別的な素朴な恐怖心が表出したものであるのに対して、このゲームは差別的な要素はほとんどない。魚人は出てこないし、時代背景の割に多様な人種や性別のキャラクターが自然に出てくる。

 ラブクラフトの著作を語る上で、差別の話は避けて通れないし、特に魚人ものはなおさらである、という事を踏まえてゲームを見ると、このゲームの世界観は、意図的に脱差別的な海洋ホラーを目指して作られたのかもしれない。

 

 ゲームのビジュアルもとても良く、3Dで描かれる風景は、凹凸やテクスチャの少ないあっさりしたもので、怖さは控えめになっている。

 釣りの場面では、バリエーション豊かな奇形魚のデザインとフレーバーテキストがゲームを彩る。奇形魚は、無理矢理肉体を変質させられたせいで苦しんでいるような設定のものが多いのだが、よくもまあ気持ち悪い魚のレパートリーがこれほど用意できたものだと関心してしまう。ゲーム上では、普通の魚と奇形魚を同じ網に入れても問題ないのだが、食害が起こらないのか心配だ。

 気持ち悪い魚といっても、適度にデフォルメされていて、グロ映画のように見るだけで気分が悪くなる、というようなものではない。見た目でガツンと来る嫌悪感があるのではなく、画面の情報量の少なさが、かえって想像を掻き立てるタイプの嫌悪感がある。釣った後に、「目のように見えるが実は卵」「ヒゲだと言い張っているがどう見ても寄生虫」のようなフレーバーテキストを見て魚の正体を知った時にゾッとするのだ。

 人物のデザインも、不気味さと愛嬌のバランスが良い。初期の頃は陰気で底知れない風に見えた住民達の印象は、交流を進めていったり、明るい人物が登場したりすると、徐々に印象が変わっていくのだ。

 例えば、サブイベントのフードの人々は、意味深なことを言って魚を不気味な食べ方をするが、単に飢えてて死にそうな人で、有益な報酬をくれる良い人たちだと分かると、徐々に可愛らしく見えてくるようになる。

 

 

 一方、このゲームの最大の欠点は、ゲームの難易度が低すぎるという事だ。効率の良い釣りを求められるのはせいぜい中盤までで、徐々にお金が余りだすので、終盤には釣りは図鑑埋めのための作業と化す。

 最初の頃は、何が起こるか分からない夜は恐ろしいが、対処方法が分かってしまえばもう怖くない。

 約20時間くらいのシナリオをクリアする程度なら楽しめるが、最大サイズを更新したり、効率を追求してみるとかの、自分なりのやり込みをしたいという気にはなれなかった。

 

 ムーンフィッシュなどのレア魚の中で、さらに低確率で出現する奇形種の図鑑埋めの難易度の高さは、「難しい」というよりも「面倒」という表現が似合う。これらは出現場所が限られている魚なのだが、闇雲に探し回っているうちは疲れるし、実は全ての魚の出現場所は完全固定だと気づいてしまえば、出現場所を往復するだけの退屈な作業になる。

 魚の出現場所が完全固定なのは、運によって難易度が大きく変化してしまわないと考えれば良いかもしれないが、リアルではなく、興醒めだ。

 こうした図鑑埋めの難しさは、終盤に手に入る撒き餌によって解決できるのだが、撒き餌の強力さは、図鑑埋めが作業である事を認めたようなものだと思った。

【映画】可愛くて真面目なクィアファンタジー『ニモーナ』

 無実の罪を着せられて王国から追われるようになった騎士が、怪物扱いされている不思議な子供と出会うことで、王国の嘘を知ってしまう物語。

 題名になっているニモーナは変身能力を持っていて、人間の少女の姿を取る時が多いが、それを本当の姿とは思っておらず、「自分はニモーナだ」とだけ説明する。

 このニモーナの設定自体はファンタジーだが、あからさまにトランスジェンダーが意識されていて、ニモーナが怪物として迫害される描写はかなりリアルだ。こうした現実のマイノリティ性をファンタジーに置き換えた物語は、暗喩的になって結果的にマジョリティへ配慮された物語になってしまいがちな欠点もあるが、この作品ではプライドフラッグカラーが描かれるなど、マイノリティの視聴者を第一にした作品作りをしようという意思が感じられる。

 

 王国に性別や人種による差別的がない事は、現実であらゆる差別が許されない中でも、トランスジェンダーだけは例外的な取り扱いを受けている事を考えればおかしくないのだが、騎士の血統だけが騎士になれる伝統があるのに、同性愛者の騎士が問題にならない事には少し違和感があった。

 映画のもう一人の主人公である騎士バリスターは、エリート騎士のアンブローシャスと恋愛関係にあるのだが、二人の関係が隠れているのか公言しているのか、周囲から受け入れられているのかがよく分からないのだ。

 バリスターと仲が良く、周囲から期待されているばかりに率先してバリスターを追わねばならない立場のアンブローシャスの振る舞いは、モデル・マイノリティ的に見えるのだが、この世界の同性愛者の立ち位置がはっきりしないのでなんとも言い難い。

 とはいえ、引き裂かれた友人関係という構図で、二人が恋仲だと明言されているおかげで、大きな騒ぎの中で二人が個人的な言い争いをする描写が比喩ではない痴話喧嘩になって、二人の感情の機敏が分かりやすくなっているのは良いと思った。

 また、嫌われ者とエリートがさっぱりとした相思相愛の関係性である、というのはめちゃくちゃ良い。この可愛らしい関係性が見れるだけでも大満足である。

 

 終盤で絶望したニモーナが変身する巨大生物は、怪獣映画風に描かれていて、こうした非怪獣映画でサプライズ的に怪獣要素が扱われるのを見ると嬉しくなる。本編では恐ろしい存在として描かれている怪獣も、エンディングのアニメーションでは可愛らしくデフォルメされていて、怪獣もまた愛すべきキャラクターの一員なのだという事が分かる。エンディングの緩い騎士のアニメーションはとても可愛く、エンドロールも退屈せずに最後まで見る事ができる。