Hotspur’s blog

移行テスト

【映画】出生主義と戦うヒーロー『エターナルズ』

 大昔から人類を守ってきたヒーローチーム・エターナルズが、天敵の再出現に立ち上がった結果、自分達に課せられた使命の真実を知っていく……という物語。

 

 かなり登場人物が多い映画なのだが、MCUでは初登場のキャラクターばかりなので、個性が丁寧に描かれていて、独立した作品として見ても分かりやすい。

 エターナルズは長命種であり、映画では「長命種あるある」なエピソードが沢山披露されている。長命種が長命種友達との関係を説明する時は「大学の友人」と言うのがスタンダードであるらしい。

 

 そんな長命種達の物語は、生命そのものの在り方の問題になっていく。この映画は、反出生主義を真っ当に取り上げている、きわめて珍しい映画だ。

 自分達を人類を守るヒーローだと思っていたエターナルズは、実は星を滅ぼして新しい生命を作るためのロボットで、人類を増やしていたのは、人類の幸福のためではなく、単なるエサ作りに過ぎなかったのである。

 この構図は、現実における国家が、出生を善行として肯定しているが、実際には国家を肥え太らせるための道具を増やしているだけであるという問題点と重なる。あと何故かトランスフォーマーともかなり似ている。

 

 映画では人類の愚行の象徴として、レコンキスタドールと原爆という2つのイベントが描かれている。それはいずれも国家の肥大化と関わりの深い出来事だ。

 特に日本人の立場からすると、アメリカ映画で原爆が明確に否定的に描かれているという部分はついつい褒めたくなるのだが、これには少し留意が必要だ。

 もう一つの愚行がレコンキスタドールである事からも分かるように、これは白人に自省を促すために選定された愚行であるので、日本人の立場でこれを肯定すると、どうしても他責的になってしまう。日本もまた帝国主義であった事を忘れてはならない。

 これは映画の立ち位置上仕方のない事で、アメリカ映画として非白人の愚行も対等に取り上げようとすると、どうしても進んだ白人が野蛮な周縁国家を批判するという、古典的な差別描写になってしまうので難しい。そういった背景を考慮した上で考えた方が良い描写である。

 キンゴの描写に関しても、同様の留意が必要だ。ボリウッドスターのキンゴが、代々俳優の家系(という事になっている同一人物)として生きてきたという事は、ギャグのように描かれているが、彼は家系スターとしてカースト制度の特権を享受してきた立場であるという事なので、あまり笑えない話だ。

 

 エターナルズの上司のセレスティアルズは、星を滅ぼさなければ新しい生命が生まれずに無になるという話をして、今在る命と産まれていない命を天秤にかけようとするが、これは典型的な出生主義者の詭弁である。無は善くもないが悪くもない。産まれていない命の価値を考慮するという事は、セックスをしない事や避妊を殺人とみなすという事で、これは到底道徳的には受け入れ難い価値観であるのに、出生主義者はその矛盾に気づいていない。

 だが、この映画ではセレスティアルズの詭弁への明確な反論は行われないまま進行する。流石にこのテーマを扱っておいて、これが詭弁であると知らないとは思えないので、ここには何となくクリティカルな議論を避けたがる、出生主義者への配慮の匂いがする。

 自分達の使命に対する各メンバーの向き合い方は、人間の属性で考えた時に出生主義についてこう感じてそうだな、というイメージ通りのスタンスになっている。女性陣は言わずもがな、ゲイのファストスは生産性が無いことは悪い事かという問題を考えざるを得ないだろうし、ドルイグはハグが苦手だという台詞から、アセクシャルの傾向があるように見える。

 ただ、ファストスが子供の居るゲイだと言うことは、同性愛者は少子化を促進して国を滅ぼすような存在ではないよという、マジョリティへのアピールのためにその属性を利用されているので、あまり好ましい表現とは言い難い。

 

 まだ影も形もない人類以降の新生命に対して、出生と引き換えに地球を破壊する、産まれかけのティアマットをどうするかという問題は、中絶を暗示している。中絶の是非は反出生主義とは少しズレるのだが、反中絶派の主流意見は、子供を産む事が善いことだと信じている出生主義者のものである。

 ティアマットも人類も守るという穏当な選択肢が失敗し、セルシがティアマットを殺す事を選んだというのは、かなり明確に中絶を肯定するメッセージを感じさせる、革新的な描写だ。

 ティアマット当人が産まれない事を望んだのは、芥川龍之介の『河童』で、河童の赤ちゃんは自分の意思で産まれるかどうかを決める事ができると描写されていた事を思い出した。『河童』が、架空のユートピアをと対比させる事で出生主義の是非を問うような文脈であるのに対して、『エターナルズ』は架空の解決方法をもって現実の問題を解決している。こういうやり方は、現実ではその問題に対して解決不能だという事を認めているようで、あまり好みではない。

 反中絶派のイカリスは、最終的には矛をおさめるのだが、イカリスは好きな人の中絶だから容認しただけで、根本的には反省していないと思う。いつイカリスがボコボコにされるかと期待していたら、エモい感じで勝手に死んでしまったのは、どうにも収まりが悪い。セルシには、キャプテンマーベルを見習って欲しい。

 

 主人公のセルシ周りの恋愛関係の拗れは、世界規模の問題と並走する個人規模のドラマとしても描かれているのだが、元カレのイカリスと共闘して絆を深めるというシーンが「おっ浮気か?」とでも言いたげな下品な視点で描かれていたのはかなり酷いと思う。モノガミーの押し付けだし、週刊誌のゴシップみたいで悪趣味だ。

 スプライトは作中ではイカリスが好きだったという理由で裏切りを説明されているが、恋愛ものの文脈的には、スプライトが好きなのは明らかにセルシである。セルシは学校の教師なので子供を恋愛対象とは見ていないだろう、という事が描かれているからだ。スプライトはセルシにとって、絶対に恋愛対象ではない恋愛相談役で、こうしたポジションに居るキャラクターは、実はその人に想いを寄せているものだからだ。スプライトのセルシへの感情は、嫉妬も含んだ「百合」的な奴であると思う。

 

 その他に気になった描写として、セナが精神的に不安定な女戦士である必要は無かったのではないかと思う。ギルガメッシュが主夫・ケアする男性として描かれていたおかげで多少はましになっては居るが、根本的にそのようなキャラ造形にはウンザリだし、やめた方がよい。

 

 この映画のメッセージは、マジョリティへの配慮を含んだかなり「穏当」なものになっている。中絶を禁止したり、人を国家繁栄の道具にするような形の人口増は良くなくて、ファストスの家族やエターナルズの連帯のような、新しい家族の形に変わっていく方が良いというものだ。

 仮にみんなが産まない自由を選択して、国家が滅びたとしても人権は絶対に守るべきだ……という毅然とした主張ではなく、新しい家族でも子供を産む人は居るのでまあ大丈夫っすよ、といったやんわりとした話が行われている。

 MCU映画といった世界規模の大衆向け映画で、反出生主義の話をやったり中絶を明確に肯定したりするのは、かなり革新的で攻めていると思うのだが、同時に大衆向け映画は、所詮このあたりまでしかできないのかといった限界も見えてくる映画だった。